目次
- 中学一年生です。
僕の母はクリスチャンで、僕自身は神様のことを信じてはいるものの、時々本当に神様はいるのかわからなくなってしまいます。それに死んでしまいたいという気持ちになることがあります。また、嘘は罪だと分かっていても何度も嘘をついてしまいます。それでも自分の罪を告白し、謝れば本当に天国へ行くことはできるのでしょうか?神の赦しを受けることで、天国へ行くことができるのは知っていますが、自分は、嘘をつくことが出来るだけ少なくなりたいのです。しかし、そのためにはどうすれば良いのかが自分では見つけることができません。どうすれば嘘をつくことが少なくなるのかアドバイスでもなんでもいいので教えてください。お願いします。⾧文失礼しました。 - ご質問ありがとうございます。
まず、死んでしまいたくなるほどつらいことがあったため、神様は本当にいるのか分からなくなったのだと理解しました。この件についてはまた別の記事で回答しますので少々お待ちください。(どのような時に神様はいないと感じるのか教えていただけると具体的に答えやすくなるので、可能であればコメントに書いてくださいね。)
今回は2つの質問に分けてお答えします。1 つは、嘘をついても罪を告白し、悔い改めれば天国へ行くことはできるのかということ。2 つ目は、どうすれば嘘をつくことが少なくなるのかということです。
赦されない罪はない
まず、嘘をついたり盗んだり人を殺したとしてもキリストにあるなら赦されない罪はありません。
よって、何度も嘘をついているから赦されないのではないかと心配する必要はないのです。
こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
ローマ人への手紙 8 章 1 節
「キリスト・イエスにある者」とは、イエス様を受け入れる人のことです。
つまり、イエス・キリストが自分の救い主だと受け入れるのであればどんな罪を犯したとしても神様が赦してくださるということです。
嘘をついても罪を告白し、悔い改めれば天国へ行くことはできるのか?
まず、悔い改めるという「行い」が天国へ行く条件ではなく、私たちのために十字架にかかってくださったイエス様を信じた人はみな天国へ行くことができます。
聖書にはこのように書かれてあります。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
ヨハネの福音書 3 章 16 節
繰り返しになりますが、「行い」ではなくイエス様を信じることですべての罪が赦され、天国に行くことができます。
恵みのゆえに救われる
質問者様にはこのような考えがあるのではないでしょうか。
「悔い改めれば天国に入れてもらえるのではないか」
「何度も嘘をついたりして罪を犯すと天国に行けないのではないか」というような考えです。
しかし、救いは完全に神様からの一方的な恵みです。
この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。
行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
エペソ人への手紙 2 章 8~9 節
私たち人間は自分で自分を救うことはできません。
私たちがどれだけ善行を行ったか、どれだけ罪が少なかったかということで天国へ行くかが決まるわけではないのです。
自分の力で頑張って天国に入ろうとするのではなく、イエス・キリストという神様の賜物を感謝して受け取ってみてください。
嘘についての聖書箇所
次に、聖書は嘘について何と語っているのか見てみましょう。
互いに偽りを言ってはいけません。(以下省略)
コロサイ人への手紙 3 章 9 節
聖書は嘘をつくことを禁じています。
しかし、このような箇所もあります。
あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味の効いたものであるようにしなさい。そうすれば、一人ひとりにどのように答えたらよいかが分かります。
コロサイ人への手紙 4 章 6 節
まず、嘘をつく動機を考えてみてください。
人を騙したり傷つけるためであれば禁じられていますが、サプライズをしたり人を喜ばせるための嘘であれば別だと私は思います。
いつも言葉に発することが親切で愛を動機にしているのであれば、何を言って良く、言うべきでないのかが分かるのだと思います。
私も常に愛を動機に言葉を発することができているわけではないですし、嘘をついてしまうこともあります。
しかし、人間だから仕方ないとあきらめるのではなくイエス様だったらどうするか考えて過ごしたいと思っています。
どうすれば嘘をつくことが少なくなるのか?
「嘘をつくことが出来るだけ少なくなりたい」という想いは神の子供としてふさわしく、感銘を受けました。
まず、先ほど紹介した聖書箇所の続きを見てみましょう。
互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは古い人をその行いとともに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされ続け、真の知識に至ります。
コロサイ人への手紙 3 章 9~10 節
この先は「古い人」「新しい人」「造られた方」について説明していきます。
(ここからは少し難しい内容かもしれません。頑張ってかみ砕いて説明しますが分からない場合は遠慮なくコメントに書いてくださいね。)
古い人とは、自分の「肉」に従って生きている人のことです。
「肉」とは、人間が生まれながらに持っている、罪の性質のことです。
肉に従った行いとはこのようなことを指します。
肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。(以下省略)
ガラテヤ人の手紙 5 章 19~21 節
嘘をつくというのも肉に従った行い、つまり古い人の生き方です。
新しい人とは、イエス様を信じ新しく生まれ変わった人のことです。
ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
第二コリント 5 章 17 節
つまり新しい人とは、古い人が過ぎ去って、神のかたちに新しく造り変えられた人のことです。
神のかたちとは、神の性質のことです。
人間はそもそも神のかたちに似せて造られましたが、アダムとエバにより罪が入り神の性質を反映して生きることができなくなりました。しかし、キリストを受け入れることによって私たちの罪が取り除かれ、再び神のかたちを反映する新しい人に造り変えられるということです。ですから、「キリストのうちにあるなら」と書かれています。
「新しい人は、それらを造られた方のかたちにしたがって新しくされ続ける」とは、キリストに似た者にされ続けるということです。
イエス様は嘘をつきません。キリストに似た者になるということは嘘をつかない人になることでもあります。
ここでのポイントは、「され続ける」と受動態で書かれてあるところです。
私たちが自分で頑張ってキリストに似た者になろうと頑張る必要はないということです。
私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
第二コリント 3 章 18 節
つまり、御霊(聖霊)によってキリストに似た者に変えられていくということです。
質問者様は嘘をつかないように自分で試行錯誤しながら頑張ってこられたのだと思います。
しかし、キリストにあるならそのように頑張る必要はありません。
嘘をつく古い人は過ぎ去り、神の栄光を反映させる新しい人に自然と変えられていきます。
よって、質問者様も「キリスト・イエスにある者」となり、嘘をつかないように新しく変えられることを祈っています。
まとめ
イエス・キリストが自分の救い主だと受け入れるのであればどんな罪を犯したとしても何度でも赦されます。
悔い改めるという「行い」が天国へ行く条件ではなく、私たちのために十字架にかかってくださったイエス様を信じた人はみな天国へ行くことができます。
「悔い改めれば天国へ行ける」というようなことではなく、救いは完全に神様からの一方的な恵みです。
大事なのはイエス・キリストという神様の賜物を感謝して受け取ることです。
また、自分で嘘をつかないように頑張る必要はありません。
キリストにあるなら、嘘をつく古い人は過ぎ去り、神の栄光を反映させる新しい人に自然と変えられていきます。
神様を信じる者として嘘をつくことに非常に罪悪感を覚え、一人で葛藤されていたのかもしれません。
詳しい状況は私には分かりませんが、イエス様はあなたの心をすべてご存じでその上で変わらず愛してくださっています。
そして、嘘をつかなくても生きていけるように、きっとイエス様はあなたを守り導いてくださいます。
お祈りしています。
神様の祝福がありますように。