- キリスト教の「信じなければ救われない」という教えは窮屈に感じます。信じるとはなんですか?
- ご質問ありがとうございます。信じることは、頑張ってできることではなく、信じることだけ単独ですることもできないと私は思います。
愛することと信じること
みなさんはお母さんのことが好きでしょうか。
もしお母さんのことが好きなら「お母さんのことを信じていますか」と聞かれたら「信じています」と答えるでしょう。
人は愛する時に自然とその人を信じているものだと思います。
その人のことが大嫌い、あるいは興味がないにも関わらず「信頼はしている」などと言わないと思います。
つまり「愛すること」と「信じること」は一緒に出てくるものであり、どちらか一方だけをすることはできないと私は思います。
よって、「信じなければ」という言葉には愛がなく、義務的なニュアンスを感じてしまいました。
「信じる」ということだけを単体でしようとすると、「信じれるように頑張らなきゃ」と肩に力が入って窮屈に感じてしまうのだと思います。
そうではなく、まずは神が私たちにどれほどの愛を注いでくださっているのかに集中してみてください。
神の愛
私たちは味がなくても生きられたと思います。しかし、私たちがおいしいと感じられるように神は味覚を与えてくださいました。
そして私たちが目で楽しめるようにきれいなお花や景色も創ってくださいました。
聖書には、山や海、動物などの被造物を通して神がおられることが分かると書かれてあります。
神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造された時から被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。
ローマ1章20節
聖書を読み、神の愛を探してみてください。
神を愛する時、気づいたら信頼しているものだと思います。
参考になれば幸いです。
神様の愛がいつも共にありますように。
久しぶりの事で、とても嬉しかったです。
先日、お母さんと圭子さんが来てくださり、短い時間でしたが、交わりが出来た事、感謝です
分かりやすく読みました水島協会品川祥子です
お久しぶりです。
ありがとうございます!
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